SUPERCONDUCTIVITY COMMUNICATIONS, Vol.13, No.1, Feb. 2004

12. 書評:“ TRUE GENIUS ”THE LIFE AND SCIENCE OF JOHN BARDEEN


  (ジョン・バーディーンの生涯と科学、二つのノーベル物理学賞~唯一の受賞者)
  Lillian Hoddeson ,Vicki Daitch (リリアン・ホドソン、ヴィッキー・ダイチ)著
  Joseph Henry Press、2002年10月発行、ISBN 0-309-08408-3,本文330頁、全482頁、
  $27.95、http://www.nap.edu/catalog/10372.html

 イリノイ大学の固体物理学史教授、上級物理学者と同大学歴史科博士の共著である。生前からバーディーンに行っていたインタビューを基にした伝記。若者向けの平易な内容。タイトルが示す通り、天才育成に焦点を当てている。ここでは超伝導を中心に要約で紹介する。

 バーディーン家のルーツは1638年移民した英国人ウイリアム・バーデンに遡る。プリマス近郊の地主から、レンガ積みを学び、そこの娘と結婚した。ジョン・バーディーンはこの10代目の息子にあたる。この「ルーツ《の章では、10才のジョンが食後に関わらず、棚の上に上げられたケーキほしさに身を乗り出し、棚から落ちて腕を折る話で読者は引きつけられるだろう。11才のときに母を癌で亡くした混乱も詳しく書かれている。

 ウィスコンシン大学では、ジョン・ヴァン・ブレックやピーター・デバイ、ポール・ディラックらに教わったことが述べられている。一度はガルフ研究所に就職するが、プリンストン大学で博士取得を目指す。ここでウイグナーを指導教官として、固体物理をテーマに選ぶ。フェローとして学んだハーバード大学では、ブリッジマンと共同で高圧でのセシウムの構造変化の研究を行った。このハーバード時代をジョンは「人生で最も影響を及ぼした時期《としている。というのは、フェルミ面のシャープさや超伝導を説明することに上成功に終わった時期でもありながら、この間に彼は理論物理学者としての腕を磨いていたからだ。助教授として赴任したミネソタ大学でも超伝導に目を向け、パウリにその論文を送っているが、認められなかった。

 海軍兵器研究所を経て、ベル研に移ったジョンはトランジスタにつながる研究を始める。この間47年6月、ショックレーと欧州の研究所視察に行き、ジョンはアムステルダムやライデンの大学で超伝導について議論したり、超伝導研究者H.カシミールや英国ケンブリッジではD.シェーンベルク、更にH.ロンドン自身とも意見交換を行っている。

 トランジスタを47年12月に発明し、その後半導体の研究に関心を失いつつあったジョンは古いノートを引き出して50年初期に超伝導を研究し始める。この年5月には「同位体効果《が発見される。電子とフォノンの相互作用を言い出したフレーリッヒが、たまたまベル研を訪れ、ジョンは彼とも緊張して議論している。後にジョンは書いている。「ついに超伝導を説明する時が来た!《

 51年イリノイ大学に移り、53年ジョンが訪日した際、学会で話せなかった超伝導研究者中嶋貞雄氏と吊古屋駅で会い、ジョンの暖かさがにじみ出ている。

 中心的な章である「超伝導の謎を解く《では、シュリーファーやクーパーが超伝導研究を決断したいきさつ。超伝導研究の真っ最中に受賞したトランジスタのノーベル賞の様子、受賞前後のジョンの多忙な超伝導研究。クーパー、シュリーファーの発想の詳細。BCS発表後の周りの研究者の反応が書かれている。

 超伝導研究に対する2度目のノーベル賞受賞の際には、トランジスタのときとは異なるバーディーンの満足さが伝わる。その後、CDW(電荷密度波)にジョンの関心は向けられるが、87年の高温超伝導発見によるBCS理論の変わらないポイント、即ちペアリング機構やギャップの開きなどの把握とその論文発表、87年6月提出のフィジカル・レビュー・レターズへのサラモンとの共著についても描写されている。BCS理論以来、ジョンが新しい超伝導機構を、フォノン機構に執着することなく、熱く捜し求めていたことは特筆すべきことであろう。

 終章「天才の育成《では、ジョンの研究手法としての、先人の論文を全て読み、大きな問題は小さな問題に分解し、共同研究で難問に取り組むことなどが著者より挙げられている。

   妻ジェーンを中心とした、ジョンの家庭生活も読み応えがある。

(NORI)