SUPERCONDUCTIVITY COMMUNICATIONS, Vol.23, No6 December, 2014


<北澤宏一先生追悼特別寄稿>

去る926日にご逝去されました本誌SUPERCOM創刊者、北澤宏一先生への追悼文を集めました。

 ご寄稿いただきました皆様に感謝申し上げます。以下、話題の年代順にしています。(SUPERCOM事務局)


北澤先生の思い出                       大阪大学 田島 節子

 

先生が東大工学部物理工学科におられた1980年から19863月までの6年間は、ちょうど私が専業主婦から技術補佐員になり、2人の息子を出産し、博士号を取得し、助手のポストを得た時期に重なります。まさに人生の大転換期でしたが、ここに北澤先生の絶大な影響がありました。1980年、ドイツから帰国の挨拶に田中昭二先生の部屋を訪ねていたとき、上下ジャージ姿で「いやあ今年の(工学部)運動会、物工はいい成績でしたよ!」と息せききって飛び込んでこられたのが北澤先生でした。何だか楽しそうな先生が研究室に入られたんだなあ、というのが第一印象でした。1982年から4年間、技術補佐員としてBa(Pb,Bi)O3の実験研究をしていた間、北澤先生の居室に机を置かせていただき、週2日ではありましたが公私に渡り、多くのアドバイスをいただきました。当時はまだエアコンが入っておらず、夏は小さな扇風機を回しながら、窓と入口のドアを開け放って風を通しました。すると自然豊かな本郷キャンパスにワンサカいる蚊が入ってくるので、蚊取り線香は必須。それでも防ぎきれず、「暑さを取るか蚊を取るか」の究極の選択を迫られ・・・。そんな部屋で一生懸命書いた論文を添削していただいたり(生まれて初めて書いた論文は北澤先生の添削で真っ赤にされました)、すべて懐かしい思い出です。

若い人が大好きなのに、学生のいないJSTに移られ、きっと寂しい思いをしておられたに違いありません。「今阪大の吹田キャンパスに来てるんだけど、これから行くからセミナーやらせて。」といきなり電話がかかってきて、押しかけ(?)セミナーをやられたこともありました。きっと学生たちに直接語りかけたかったのでは、と拝察いたします。

先生の行動はいつも唐突で、弟子達を驚かせます。今回も私達の心の準備ができていないうちに「お先に」と逝ってしまわれたように思います。「ちょっと待ってくださいよ、先生」という弟子たちの言葉に耳もかさずに。困ったものです。                                                                               合掌

 

 

 

北澤先生の死を悼む 

(公財)国際超電導産業技術研究センター 超電導工学研究所 名誉所長 塩原 融

 

北澤先生が御逝去されました。

 生者必滅は世のならいとは申しながら、高温超電導研究の大御所の田中昭二先生、前田弘先生、北澤宏一先生と続くと、人の世のはかなさを実感します。

 マサチューセッツ工科大学(MIT)6年先輩にあたる北澤先生と初めてお会いした日の事はよく覚えています。高温超電導フィーバー真っ只中の1987年に先生がMITKresge Auditorium(大講堂)で特別講演をなされた時でした。酸化物が超電導現象を示すとは夢にも思わなかった頃で、この新材料に対して何か貢献できないかと、超電導プロセス研究を手探りで始めていた時でした。御講演の後、個人的にお会いする機会があり、「日本で田中昭二先生が新しく研究所を設立する計画が本格的に動いている。超電導の専門家であることは必須ではなく、酸化物材料プロセスの研究を担当できる研究者を世界中で探しているのだが、君に興味があれば強く推薦するが、どうか」と声を掛けて下さいました。これが小生の現在の超電導工学研究所での研究の始まりに繋がりました。

 非常に鮮明に記憶している北澤先生からの御助言は、先生が東京大学を退職され、2002年に科学技術振興機構(JST)に移られた時のことでした。「超電導のような全く新しい材料の研究は持続性が非常に重要であり、研究の継続とともに、国研、企業等の若手研究者の育成も常に心掛けなければならない。君も50歳を過ぎているのだから、いつまでも研究だけではなく、研究マネージメントにも五分五分以上に注力しなければならないと思わないか?」この一言が契機となり、国プロの研究企画・マネージメントにも積極的に携わることになりました。その後も色々の機会で、“研究の在り方・独創性”、さらには“夢のある研究とは?”等々数多くの御助言を頂きました。今後は、先生から頂いた御教訓を生かしていくことがご恩に報いる道と思い、頑張る所存です。

北澤先生、本当に有難うございました。私自身にとって、先生は大切な“先輩・恩師”であるとともに、研究者としての目標でした。これからもこれまでと同様に我々をお見守りください。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。                                                                                          合掌

 

 

 

日経超電導が好きだった北澤先生       日経BP社 田島 進(元日経超電導編集長)

 

 「日経超電導」というニューズレターに1987年から5年間ほど携わっていた。当時のことを思い出すと、必ず北澤先生の顔が浮かんでくる。高温超電導の発見という科学史上の大イベントの中心人物として、世界中を飛び回って活躍をしていた先生だが、どんなに多忙でも私たちの取材にはいつも快く対応してくれた。学会や研究会での立ち話、研究室での雑談、米国の取材旅行でご一緒だったこともあるし、ときには編集部まで来てレクチャーをしてもらったこともある。記事が正しいかどうか心配で、印刷所に送る直前、夜遅くに研究室に電話をしたことが何度もあったが、必ずいらっしゃった。日経超電導の最大の理解者、協力者、今の言葉でいうならサポーターだった。

 日本のアカデミズムの中枢にいた北澤先生には、研究者、教育者としての使命に加えて、報道対応の仕事も多かった。当時はまだ室温超電導の存在が強く期待されていた時代であり、世界中から伝わってくる新しい研究報告について、新聞やテレビから最初にコメントを求められる立場の人だった。学会で議論されている専門的な話題を、私たち普通の市民に分かる言葉にていねいに翻訳して伝えてくれる貴重な人だった。

 当時の日経超電導は、学会誌と新聞やテレビの中間に位置するユニークなメディアだったと思う。理系出身の記者3人がフルタイムで関わり、基礎研究から応用まで何でも記事にした。学会では採り上げにくい怪しげな新物質や室温超電導の噂なども平気でよく採り上げた。だんだんと取材先の専門家の皆さんと仲良くなり、このニューズレターのファンのような方も多くなって、仕事をしていても楽しかった。中でも、北澤先生は日経超電導が本当に好きだったようだ。何かのときに「赤字が続いていて、もうそろそろ店仕舞いしないとダメなんですよ」というような話をしたとき、先生は真顔で「え、どうすればいい。続けるにはいくらかかるの」というようなことを言っていただいた。確かに、徐々に熱が冷めつつあった高温超電導の研究コミュニティーにとって、日経超電導が休刊するというのは困った話であったに違いない。でも北澤先生が日経超電導をつぶすまいと思ったのは、たぶんそれだけでない。2週間に1回届くニューズレターの封を切る楽しみが、もっと続いてほしいと思っていたのではないかと、私は勝手に思っている。

 日経超電導が休刊してすぐに、この「SUPERCOM誌」が創刊され、ずっと続いているのは、北澤先生が心を込めてつくったニューズレターだからだと思う。SUPERCOM誌の最初の何号かは北澤先生が直接、編集・執筆されていたと思うが、見出しの書き方や記事の文体が日経超電導によく似ていて、こっそりうれしかったことを覚えている。東大、JST、民間事故調はじめ様々なお仕事で立派な業績を上げられて、忙しくても充実しきった人生だったことは間違いないと思う。もしかしたら今ごろは天国で来生の準備をしながら、「次は気楽にジャーナリストでもやってみようかな」などとつぶやいているかもしれない。ご冥福をお祈りします。

 

 

 

北澤宏一先生を偲びまして                             福田 良輔(元住友電工)

 

 北澤先生との印象的な出会いは、月刊誌OHM 20045月号の特別座談会「ネルギーを地球規模で活用する」で、桑野幸徳博士(元サンヨー会長)と共に3人で、世界各地の再生可能発電電力を、網の目の様に連系された高温超電導(HTS)直流ケーブルで送電し、昼夜或いは夏冬を均してしまい、エネルギーフリーの世界の実現を「GENESIS計画」(桑野博士の命名)として語り合った時です。HTSの先進的学者であった北澤先生は、熱くHTSとそれに基づくGENESIS計画の必要性を説かれ、当時HTS線材の商用化で苦戦していた私ども住友電工を激励して下さいました。このHTSGENESIS計画の必要性に関する確信、謂わば科学者のMissionとそれに基づくVision(普通の人から見れば”)は終生変わるものではありませんでした。北澤先生はそういう夢を熱く語れる科学者でした。

 福島原発事故が発生した直後に、直ちに科学者はその原因究明に立ち上がるべきであるとして、北澤先生は学術会議の中に調査委員会を立ち上げようとなさいました。先生は、学者がその学識を生かして『直ちに行動に移る』、そういう勇気と実行力を示された数少ない知的エリートのお一人でありました。それは、結局民間調査委員会という形に変わりましたが、信念を揺るがすことなく調査委員長をお勤めになりました。その報告がなされた後に、調査報告書とは別に先生ご自身がお感じになり考えられた内容を、先生個人が一般国民に語りかける本として著して下さいと強くお願いしておりましたところ、先生は快諾されて、20126月に一冊の本「日本は再生可能エネルギー大国になりうるか」を出版なさいました。その前半が事故調に関するもので、技術には事故リスクが伴うとしてもそれが国家の存在を脅かす様な想定リスクであれば、その技術の応用は決して許されてはならない。その観点からは、一カ所に多数の原子炉を近接して建設する(使用済み燃料プールつきの)「過密な配置と危機の増幅」を鋭く批判なさいました。なぜ、学者も技術者も電力会社もメーカーも官庁も政治家もこの様な基本的な問題を看過し、そうすることを許容したのかと。しかし、この本の後半では、再生可能立国を目指す様々のシナリオを、そうすべき信念と共に、切々と述べておられます。そして、手ずから下さったその本には、「謹呈 北澤 宏一 」と記されていました。次世代に向けて科学に裏打ちされたを心に描き、それを生涯抱きつつ広く世界に発信されてきた北澤先生の真摯且つ情熱的な生き様は、後に続く人々に強い勇気と希望を与え続けて下さるものと確信致しております。

 今年の5月から8月にかけて、北澤先生とはe-mailで、今日の様々の課題、例えば「科学的(工学的)事実とはなにか?」、「科学者・技術者の責任と倫理」、「科学・工学の発展の縁が、今日では、単なる好奇心に基づくものであってよいのか?」等々につき対話させて頂きました。原発事故と吉田調書問題、理化学研究所のSTAP細胞と科学論文のあり方等について、先生は一方では非常に現実的な判断を示されました。「私としてはテクニカルにことに関わってゆきます。必要なことは何かを申し上げて、それが出来るかどうかを判断の基準とします。」TVでの論評や新聞等へのコメントも数多くこなされてきた先生に対する各界からの期待と信頼も、この様な不偏的且つ現実的で明快な基準に基づく見解表明にあったものと拝察致します。困った時にこの様に信頼のおけるコメントが幅広く得られる科学者の存在は、なにものにも替え難い日本の貴重な財産であったことを、先生が亡くなられた今改めて痛感する次第です。

 謹んで哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。