SUPERCONDUCTIVITY COMMUNICATIONS, Vol.18, No4, August, 2009

 


「日経超電導」はいつ復刊できるのか


 もはやご存じない方も多くなってきたと思うが、1988年1月から1992年10月までの約5年間、2週間に1回発行された「日経超電導」というニューズレターがあった。クリーム色の紙に印刷した16ページぐらいの小冊子で、個人向けではなく企業や大学の研究室、図書室などが購入する出版物である。創刊時の部数は1000部近かったと思う。年間購読料が約10万円だったので、最初少しだけ儲かって、途中からはずっと赤字が続いた商業出版物である。
 いわゆる高温超電導フィーバーは1986年暮れから1987年の夏ごろまでの間なので、日経超電導はその時には活動していない。超電導フィーバーの間は、日経をはじめ朝日や読売などの新聞が毎日のように報道したからである。
 日経超電導には筆者のほか、黒川卓(現・日本経済新聞社科学技術部記者)と安保秀雄(現・日経BP社編集委員)の2人の専属記者がいた。専属記者は、来る日も来る日も朝から晩まで超電導のことだけを取材し、記事を書いた。日経や朝日の科学記者は、ネタがないときは他の分野の取材をすればいいのだが、我々は全ての時間を超電導だけに費やした。というわけで、当時、「何かネタありませんか?」と日経超電導の取材を受けた人は、この「SUPERCOM」の読者の中にもまだたくさんいることだろう。
 日経超電導が1992年に休刊すると決まった時、多くの人から惜しまれた。取材で知り合いになった人たちだけでなく、見ず知らずの読者からやめないでほしいと、手紙やファクスが来た(ちなみに、まだ電子メールはなかった)。海外の大学の図書室からもファクスが届いた。普通、ニューズレターと読者の関係はもっとドライなものである。
 東大の北澤宏一先生(当時、現・科学技術振興機構理事長)も、なんとか休刊を止めることはできないのかと言ってくれたが、ダメだと分かると、ではそれに変わるものを自分たちで作ればいい、と考えられたようで、それが現在のSUPERCOMにつながっていると聞いた。もし本当にそうであれば、有り難いことである。しかも、SUPERCOMは私たちより3倍以上も長い期間続いて100号に達したとのこと。

最後のニューズレター
 日経超電導が、株式情報や相場情報のニューズレターと違って、今でも人々の記憶に残っているとしたら、そんなうれしいことはない。当時、同じように米国で発行されていたニューズレターが政府の予算や企業動向を中心に報道していたのに対し、日経超電導はそういう記事も載せたが、もう少し材料科学寄りのスタンスでいた。それは、臨界温度がもっと上がらないことにはどうにもならない、という認識があったためで、その結果、日経超電導はけっこう怪しげな新物質の情報でも、どんどん取り上げるメディアになっていった。アカデミズムの皆さんだと躊躇するような話題でも、臆面もなく取材したり書いたりしたので、それがある意味、日経超電導の面白さであったのかもしれない、と今になって思う。
 そう、それはジャーナリズムの基本なのかもしれない。高尚な話をしているのではなく、週刊誌でもいくぶんか毒のある記事がないと読者には喜ばれない、それと同じである。真実であるかどうかは読者が決めればいい。メディアは、読者が知りたいと思っていることを察知して、先回りして情報をかき集める。
 80年代の後半は、そんなアプリオリなジャーナリズムの原理が、科学技術の最前線で通用した時代だった。日経超電導が休刊になったあと、90年代の中頃から世の中にはパソコンやインターネットが徐々に普及していき、いつしか情報の流れが大きく変わってしまった。そして、今日のように情報網が高度に発展してしまった世界では、2週間に一度、ぐるぐる印刷機を回して作る高額のニューズレターなど、もう誰も買ってくれないだろう。
 日経超電導を休刊するとき、「いつか室温超電導が見つかったら復刊しますからね」と、誰かに約束したような覚えがある。でも、なんだか自信がなくなってしまった。その仕事は、アカデミズムの皆さんが運営するユニークなニューズレターであるSUPERCOM誌にお任せすることにしよう。
                              (日経BP社 主任編集委員 田島 進)